2014年5月21日水曜日
有形の時折に帰任する状態
誰かが正しいと推し進め、指し示すべく堅持するようなものを信じる事こそが偏向であるのにも関わらず、君たちは、あたかも決められた事、つまりは、それが守られるべきためにあるだけの事を保つ為だけに排除され、罰せられるだけに過ぎない価値や権利や、利権や、権益や法理が示す権力に全ての価値を囲われ、持つ者や、持つ為にだけにうまいこと示されるだけの事に締め出されている事を、しかと知るべきなのにも、関わらず、知らない、などと、決められた事だから、従うなどと、言う辺りから囲われ、権力の一部に組み込まれるだけに過ぎない。持つ為だけの選挙権なら、それを取り上げ、高尚に至るまでは、一切の生活を禁じるべきなのだ。この羊飼いのホルンが鳴らなければ動けない者どもなどが、我関せず、我存じぬと交わす間の正論などは、愚者の糞を食わされている豚以下である。あるいは、ただ形あるだけの、空虚な箱である。そのような者どもが、この世界や社会を手招きし、牛耳る、というのだから、遣る瀬無いよりも、やりがいがあり、槍玉にするよりも、超越すべく、宗教的な、 〈許す〉 では無く、単に許す事すらも、強請り集るものや、問題を蹴散らし、我は我を超え、超克すべき善悪や概念を乗り越え、我は、我だけに至る。一致しない過去なんかに、顔を近付ける。思っているのは、所詮は、私だけなのだ。私の内外に訪れる言葉は、私だけのものでしかないなら、私自体が捨てるべきなのである。ほぼ退屈な街並みは、心身に食い込み、果たす意味すら失い、自分などは一切見失う。辺り一面は祟りや呪詛に塗れた恨み辛みがバビロンに重なる。憎しみは端々に溜まり、零れるままに、消費され、暗鬱さを溜め込む。踏み込むべきは、対象に対して紡ぐ確かな意味を踏みにじられたとしても、その苦しみを映し出す過去の敵意の影と握手をして、許し合うよりも、無に帰するだけに過ぎない過去を当てこすり、それに苦しむなど、とは人間がする事に過ぎない。生命を誇示し、生きる為や、生活を保つ為だけを堅持する事が、争いを生むと告げるニーチェを継ぐべく、私は私を引き千切り、絶えず死する為に、全身全霊をかける。それができなければ、否定も判断も出来ぬのだ。
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