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2013年10月18日金曜日

零れる夜の心象を明かす慈愛を重ねる日記

伝播される意味が同じ位置で成立させ、成因を位置付けし、同じ病理に重なる。行く先々で 重なる試練がデカダンな意味を飛び越え、重なり唸る今を超越しては、主体をたしなめて行く。端的な問題よりも、 捨て去る態度が問題だ。ただ、私にわかるように、如実に説明してもらう。 何故それで良い、と思うのかを、もう一度よく考えてみるべきだ。 形而上学からの相克、思索する運命の慟哭だけを絶えず立証し、自身に感化させ、考えに高揚感を与え、 物事を揚棄する。たちまちは溢れ氾濫し、緻密に道筋に浸透され、去り行く形状に偏る形に価値を示すだけに 過ぎぬから踏み付け引き摺り、掻き消す。悩み苦悩することをまるで他人のように傍観し眺める。 私の信用に囲いは無い。意識する、と直様認識しよう、とする意識が混濁し、昏倒する。香しく、 色褪せない世界だけが、確かなものを、育てる。 制度が産んだ孤児たちが、専制的な君子を砕き、軍事的に物事を支配し始め、短絡的な暴力に獣化し、 人間自体を失い続ける。絆とは元から備わっており、今更求めることでも、求められることでは無い。 価値はやがて死滅し、静かにいずこへ、と滅する。殆どとめどなく流転し、逆流しては、自己に帰属する。 あらゆる神が氾濫しては、端的に崇める端緒で、詰まる。その問題を汲み取り受け入れ、 どんどん上に上げて行き、行き渡らせ、昇華に至らせる。それが、窮境を究極に続かせる事である。 ただ、涅槃はここにある。たとい国家が破壊された、としても破綻することは無い。事態の均衡保つだけに 搾取する上やものが困るだけである。神は以前は自然のものであったが、人のものになった。 陥れたと促す世間が立体的に神を疎外し、一体化出来ない罪を神に着せたのだ。 何かと融合してこそ、存在は存在たり得る。一心同体を超える関係を求め、何かに沿って生きない為に 外れ自ら疎外する。何かに沿って生きる事こそ、生きる事から逸脱する行為である。何かを思考し、 思索しながら思想に添い歩くから、偏り、自らの傍らに沈み、生きた心地を忘れ、歪曲する。何かを誰にも、 背負わせ、責めるわけにはいかず、端的に自分であるべく、エゴイストであり続け、何事にも背反し、 考えに上下左右を持ち込まないことは、ニヒリズムにはならず、ぎりぎりに迫る自身にこそ、反撥する。 ただ、私は私で良いのだ。或いは、私だけで良いのだ。 個人は我々に帰し、我々は個人に帰納する。幻想だ、と言うならば、全ては幻想だ。冷厳な世界が瞬く間に羽化し、 私たちは、確かに羽ばたく。 感謝、ただ伝える思いが歌い出し、夜を形成していく。御礼。

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