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2012年11月4日日曜日

決意は繋がり果てない意識に繋がる。

夜の遺留品が朝に反して、介すべき微睡みを探している。錆び付く想い出は後ずさりし、 杜撰な心に成り下がる。もたらされる淋しさは、侘びしくも、病理、と化し、心に浸透していく。 育む是非は、混用されながら、現実を貪り、動作を深める。 仕る思いを、つまらないものですが、と明日に届け、泡沫の持論を突き抜けるべく、受け入れる価値にも 欺瞞的な笑顔を与えず、ただ有る現実にだけ、生じる先々のきめ細やかな原理を捧げるべく、 内心に拡がる、ホログラムのような現実にも、尚逸な主観も溢れ、氾濫し、急落しながらも、 微塵になり、自己の星彩になり、光芒照らし、虫生の人生にも、恍惚、と照らすべき無心からの慈悲も、 降り注ぎ、縁取りするが、彩り爽やかで、このサイファを用い、解けるべき人の心に濾過しますように、と 始末の悪い感情にも然り、と告げ、つくづくは遠ざかり、御身で果て、押しつけがましくも、 心に動作を与え、操作する事有らず、曖昧な時も、感銘な意味に遠ざかり、仮初めの自由も、 殆どの効力を失い老けては解し、解けては尊く、無惨ではあるが残念では無く、 均衡は、今回を差さず、現行に介し、程良く調和され、心の内膜に演奏を続け、延々、と続くようだが、 この夜が溶け合い、朝になれば、また新しい命に生まれ変わり、また朝に介せば、古い命に変わり、 ふるいにかけられ動作を失いながら、帰宅すべき君の袂にだけ、保つべき思想もあるだろうし、 如何せん、紡ぐ為には、繋ぐ是非を整え続ける限りに、この生命は輝くから、身勝手でもあるし、 甲斐性などは無いが、思う気持ちだけが発芽し、溌剌、と刺されば、それはそれで良し、と告げ、 この生き方にも、償いは五月蠅く鬩ぎ立てるが、建前だけの謝りは要らず、 心からの氾濫から取りこぼすような愛にも、乏しい日々がぶつかり、一時の泡、と化すが、 霞む程に、画期的な日々を勝手気ままに歩いているようだが、要する気持ちは、誰よりも高く低く、 平地を歩き、平たく生じ、均衡守る為に弊害もあるが、捨て去る程に、廃れる事は無く、 埋める事などは決して無く、尽くす者には、尽くし切り、切りが無いから、切り取り、 だからといって手放し、陥れる事も決して無く、見収めの事実に操が生じ、見つめる先の永遠を繋ぎ、 この軌跡は、絶えず永遠を重ね微々たる今に混在し、結局は、結果的に見れば、欠損し、 ボロボロな程に、輝き放ち、短絡的な潤い求めぬからこそ、自分を売る事は決して無く、 総じて相似する出来事に介し、総じて愛すべき日々に対しては、純粋であるべく、利己的な判断行わず、 この行いも、静寂に包まれ、単に帰依するだけの鼓動が鼓舞し、一律の事実に史実を生み出し、 人の歴史に介し、対立しながらも、君の一部には、溺死せず、この対す思いは、単に対立するだけには、 問わず、対しながらも、君の意味を解し、施すべく紡ぐ思いにこそ、この御身も躍動を続ける。 「関する雨滴は心に慟哭を与える。対する日々は絶え間なく価を求め、赤い血を流す。嘆じる日々は端的に廃し、潰れる者には目もくれず、暮れ行くままに、羨望を続ける。険悪な日々に押し寄せるムードは、同率な事柄にだけ、賛同しながら、何か違う、とは思わずに、対していくから疲れるし、大差も無い出来事に対し、五月蠅く付きまとうから、自分を見失い、見捨てる程に、身廃れる。情念は、何度も炎上を続け、演じるべき症状に成り得、会得すべき真実を歪曲させ、自己を混濁に誘う。両立すべきは善悪にあらず、懸隔に存在する、損なわれた意味に存在する。定理は模索し続けるべきなのに、一様の答えを持ち出し、打ち出すから、次に進めず、その場に留まる。僕は、生まれてこの方、殆どの作られた答えを信じずに、自分で調律を続け、対すべき答えに解しながら、これも違う、あれも違う、と彷徨いながら、境目に欠如しながらも、決意を仄めかせ、諦念せずに、続けて来た。解すべきは対処すべきに有らず、介して施さない限りは、程良く解けはしない。対すべきは、緩衝している自己、と自己に存在するが、誰もが対象を他人にぶつけ、関するべきは、自己にあらず、と打ち付けるから、自分勝手に連理を繋げる。加算すべきは自己に退避している烏合の衆的な関係性により、動機を失い、同比すべき事実にあれやこれや、と嘯く道理を打ち付ける。克己すべきは自己にあるが、狡猾さばかりが、その差異性に詰まり、散策する思いは、尚逸な意味を失い、消散するだけに、溶け合う。悴む思いは、面影を大切にし過ぎるから、愚行を行い、自己を顕示したがる。従うべきは、純粋な自己の悪意に転じて、善意にも繋がるが、償うべきは是非に無く、陥落している心の深淵に眠る、真実の愛だけが、この陥落している思いを聳立し続け、短絡的な勝利に留まらず、敗者になりながらも、差は求めず、その間隔に存在する希少な事実にだけは、混じる意味を知り、本質から繋がり、繋がれるだけの価値からは抜けだし、新たな日々を歩む」 軽快な日々はスキップし、溌剌、と過ぎ去る風景、とシンクロする。 短絡的な信仰心は誤信である、と告げるが、感覚を持たない人にとっては、とっておきのツールだ。 譴責する思いは、悲劇を生み続ける。誰もが正しく有りたいが、こんな世の中、と卑下するだけでは、 到達出来ず投函するだけに身を納める。 老醜掲げ、蓄える限りには、この現実の陋習を留め、新たな時代に進む事は出来ない。 与えるべきなのに、溜め込む者は、漂う自意識により、いじけを無くし、維持するだけに自分を売る。 生きている限りに対す事は、保身には無く、この身を砕身し、捨て去る事にあり、 縋る程に、みっともなく感じるから、この身果てるまで繋ぐ意識にこそ、 息を吹き返し、次々に行う要素に事務的な様子を持ち込まずに、意気揚々、と紡ぐ事も出来る。 「生きて対すなら、この諦観する思いにだろう。担うべきは危難を加えながらも脅える事無く、憶えも無く、対して行く。介す日々にこそ、自然な愛は介し、この事実に必然性を生み出し、まだ諦めるな、と告げる。償い晴れても、続ける意志がない限りは、潤い課する事を躊躇う。利潤を求める限りには、理性を失い単なる動物、と化し、食い尽くしているかのように、食い尽くされ、朽ち果てるだけだ。渇し餓死するまで、この人生は誰にも、売らず、食い物にはされず、諸々の価値が変わる頃には、画期的な価値になりますように、とは願わず、身心から吐き出す思いは、そのようなものも飛び越え、何処でも無い意識に、何処までも伸び続け、生え続ける」。

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