2012年10月21日日曜日
万物に装填すべき愛。
朝焼けに染み入る野良犬は、感情にAssassinを用い、生じる先の権威を引き裂いている。
感冒のジャンクを集める咆哮を奏でる夜が消え、簡易な愛に帰還する特高たちが、感傷的な嫌疑を用いる夜が、
渇し、反芻し、公害病を吐き出す怠惰な群像に帰還し、飢渇した心に潤いを求めるベクレルたちは、
自己の権益を祭る為だけに、現在を平伏させ、未来を奪う形で、物事を収束させていく。
関し対峙している心を解放すべく進む解放軍が、革命軍、と手をつなぎ、抗すべき時代性の悪意に
魂の弾丸を撃ち込んでいる。民族浄化を促す、運命論者たちは、論争は抜きにして、長じる先の民主主義を
衆愚、と共に謳いながら、道理を求め、概念図を掻き乱し、外傷に犇めく代えがたい高尚は保守されるだけに、
保身に変わり、促すべき創造性を骨抜きにし、恰も、自分たちが正しいのだ、と告げている。
諦観し、寂れる街並みは、消灯し、シャッターを閉め切り、心情の緩衝の差異性に蠢きながら、運動体である事を、
忘れ、わだかまりを取り除く為に、魂を売る結末だ。損傷している数多の主義は、短絡的な暴力を売り、
簡素な時代の請求書は、紛争、と化し、混じる未明は、ミメシスをミリタリズムに変え、用無し、となった感情に
植え付けるプロパガンダこそが、原理なのだ、と押しつける。
始まりは、自己の神々を用いた戦争が、自己の権利の嫌疑を拭う為に始まりのサイレンを告げ、
自己の欲望を欲動させるために、一人の統治者が、世界規模に種を植え付けた。
ありとあらゆる情景は、一律の愚問を突きつけ、生痕手繰り寄せ、縛り上げられた魔女たちは、
猜疑心に陥った自分自身だった、と言う結論に等位を求め、血脈だけに結実する命などは、安値で売買され、
感慨深い、と思えば、感じた頃には殺められた結論だけが犇めく。
人類の愚行などは、行為にあらず、と鬩ぎ合う独裁者たちは、自分たちの懐疑を払う為に、
悔恨拭い、虐殺に転じ、成し遂げる意味を忘れ、自分が神であるかのように、肥大した心は、
短絡的な啓示を発し、精神分析が執り行う病跡を追う結論で得る病理に絶え間なく押し寄せる人波に
攫われるだけに元々の感情を失った思いは、超管理下に置かれ、恰も侵されているのは、君だ、と言うが、
侵されていて、傷みを抱える自己の弊害を押しつけ扇動するだけの情報に上等な意識などは無く、
扇動するだけに集結する自己の懐疑を埋める為だけに奉る結論に奉納されるだけの自己の心に性懲りも無い、
現状を受け付けるだけに長けている事には、目を向けず、向かすべきは、左右の是非にあらず、
上下の差異にもあらず、誘導すべき中道にも無い。生動する限りに、蠢くのが人間の摂理であり、
偏りを見せる、と見え透いた自己を埋める為に、最もな偏りを示す。
偏向した主義は、どちらにしても、暴利に蠢き自己の権利を埋める為に、暴力に陥り、嫌疑に鬱ぎ込み、
沸騰した現時点は退行するだけの獣の流儀を重ね、有意義なのは一部だ、と言う結論を知らず、結合し、
血統主義だけに帰還し、恰も自分こそが、絶対的な王だ、と自己を掲げ崇める。
諦観する日々は飢渇し、それを「埋める」為だけに惰性な出来事の殴打を繰り返し、僅差を埋めたがる。
埋めるよりも調律し、よりよりなど、と求めるよりも、善し悪しを知り、知った限りで止まらず、
進み続ける価値により、太古に捨てられた廃れ無い価値を用い、今に進化を遂げる為に、
この意識を高め、互い違いに交錯する現時点に価値に追い遣られず、老いるならば、
老いる前に、成し遂げる価値も、老いたから、と項垂れる事も無くなり、
ただ有る意識に未明の真実を繋げ、塞がる思いを突き抜ける為に、こんな困難を歩いている事を知る是非を、
教育すべきであり、その術を与えるのが、生きる定めである。
「何処が始まりであり、何処が終わりであるのかは、自分の世界線を司り、その場に位置づけし、収束する場所に転じる意識に堅実な時世が生まれ、揉まれるだけに心情は怜悧な傷痕を残し、猜疑心に変わり、狡猾に食い尽くす為にだけに、誰かの心象に媒介したがる。敗退者は、自己の心情を売るべくルサンチマンの怪物、となり、君の居場所を踏みつけ、破壊する。破壊された座標は、軸だけを残し、自己の欠落に押し寄せる。それは不安であり、恐怖を押し付け、それを受けとれ、と五月蠅く自我が突きつける、表面上の意識により、自意識は潰れ、潰された意識は、自己に帰還せず、誰かを攻め入るだけに陥る。ルサンチマンの始まりは、離散し、起算するだけの利己的な自己に帰還し、関すべき愛に手解きを加えず、自己愛に帰還する。管轄すべき自己は、標記を見失い、見失うだけに陥るだけに止まる。標記を掲げるべきは自己に無く、誰かの些細で細やかな愛に緩衝しない限りは、限りある事柄に止まり、自己を見失い、ないがしろにした自己の私論により、自己は、自分に収束せず、窮乏した自己は、自己に縋るだけに止まり、関すべき対象を持たぬままに、死する病に冒される。それは生きた感覚を失い、感覚の薄い膜に閉じこもり、倒錯するだけに翳る。自己を開く自己すらも見失い、過去の虚空に止まる限りは、限りある自己に止まり、緩慢たる由縁に掴まる。だが自己に位置づける座標を知る事により、その使命は、必然的に奇蹟を巻き起こし、瞬く間の出来事の主観を掴み、自己が主星で有る事を知る。有すべきは自己にも無く、対象にすら無い。有るのは、今ある未然の出来事の往復であり、幸福を求める程に遠ざかる一方を歩くよりも、この要理に示される日々に抗い、立ち向かう事により、この潤うなどは、埋めるだけに埋もれる事を知り、得れば得るほどに、埋まらぬ事を知る。知ったから、とどうした、と促している限りは、知った限りに止まり、空回り、重なり合い、印象の中庸が平衡を保つを事を知らずに、向き合う事ほどの残酷な事も無い限りである、と、ここに理のような感覚を置いていく」
事実は緩衝し、高尚に変わり、緩和していく。それが勉学の限りであり、昇華した感性は
考えを超え、長じる結論に結合していく。
溌剌、と思い描く事により、要理は深みを増し、慢性的な飢餓を発散させる。
発芽すべきは自己の主事に存在する種子にあり、求める価値に、価値は無い事を知る。
関すべきは遠巻きに存在し、中和しながら対立し、いつか自己に帰還するだけの事を知る。
知らないからこそ、この考えの上を行くものであるべく、自己に緩衝せず、万物を対象に感情を交錯させ、
この数多の事実を解く為に生まれた限りである事を、ここに宣言し、深々、と御辞儀したい。
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