2012年10月23日火曜日
人間の終わりに告げる愛。
提要すべき時間などは、考えが作り出すだけの数理だ、と全景は告げる。
考えは、ずっと先で還元され、未然では、殆ど還元はされず、還元された所で、換金する事はあらず、
有った所で無かった事を知り、知った所で、無知であった事を知る。
境目は興じるべき衝動を蓄え、総て、と緩衝し、一つの結論に収束し、又、何れかに爆発し、広がる。
意識は無に帰還し、喜悦を残し、損なわれた感情に、鋭く突き刺さる。
かぶれる思いは、被写体を求め、肖像を飾る為に、対象に媒介する。損得な愛が説き伏せる言葉は、
高徳を求めず、求め合う程に、近づくが、結局は、その間隔に存在する差異を知らずには、
本質の愛、とは言えず、陥落するだけに過ぎ去った愛は、偏り示し、どちらかの心には、深く染み入り、
拭えないままに陥る。
過去に体系は無く、現在に体系は押し寄せる。それぞれの価値は、緩衝しながら、均衡を求め、
もとい、となるべき意味合いを育まず、枠組みに収まる。
はみ出す意識は、総て、と緩衝し、平衡を求め、混じる意識に呈すべき真実を打ち出す是非を問う。
是認すべき意識は、思惟、と混ざり、顕然たる由縁を放ち、全貌に拡がりを見せる。
頭角を現した瞬間に拡がる意識に指針を加えるべく、転換すべき意味合いに施しを与える。
絶え間ない情況は霞みながら、また毅然、と輝き、恍惚を与える。
生じる先は、堅実な意味合いなどは、持たず、対立しながら、調和され、心許なく過ぎ去る日々の、
懸隔を憚りながら、嘯くだけの真実に対する真理には、信心を打ち出さず、
打算すべき事実に加算する対象を求め、それを愛、と言う。
緩和されるべき心は、出逢いによって動作を加え、交錯しながら、心に汎用すべき愛を用いる。
感情は、迎撃され、混じる先々の堅実さに絡まり、瞬く間の時間を時間、とは呼ばず、感覚で
その器官で、示した愛が、総ての実体を超え、総ての原理を飛び越える事こそが愛、と言える。
「時間は空間には呈しない。感覚器官に触れる愛は、総ての定理を超え、顕然たる由縁に帰還し、姦悪鬩ぎ合う俗世を隔て、深い真理を辿り、二人の涅槃へ、と進む。二つの命が緩衝し、均衡を求め、対立しながら、一つの意識に結合される。動作は不可欠な事柄を超え、変性意識に達し、感覚に押し寄せる愛を感じながら、昇華し、関すべき時も無く、寛容な主観だけに、勘合される意識が結論を得ては、総ての現象を見失う事こそが、真実の愛、とも言える。弔う是非を抱え、明けない夜に醒めて、心無い現実を忘れ、感じ合う一時こそが、永遠だ、と言え、癒える思いは、御身を抱え、可決すべき愛だけに結論を得る。数多に降り注ぐ不利な現状などは、その愛の動作により、感作し、緩和される。取り戻すべき是非など無く、懸隔に襲う事実などは、その場に溜まるだけの、現状に損なわれた過去だ。こじつける意味など無く、困ずる意味などは、その場には無い。意識に繋がれた鎖を千切れば、自由に意識は徘徊するが、その徘徊する意味を知らぬ者は、自己破綻に陥り、間隔を見失った意識は、自我の表面を彷徨い、表現を失う。精神分析、と哲学的要素を踏まえ、愛を解くなど、とは不可能であるから、こそ数多の恋愛に長けてきた思いを此処で解き、現実に介して行き、この愛の成長を終えぬように、この愛の実体を探るべく、紡ぐ意識には、現実は存在せず、顕然たる由縁に絡まり、現像に栄えていく。留まらぬ意識は、終焉を迎えても尚、終端、とは思わず、思った所で、そこには現実などは無く、現存する価値だけに既存する自己が呈する現実が、そこを作るだけ、という事を知る。それを知らぬままでは、勿体無いから、此処に置き去り、執心絶やす為に、思う事には、存在しない事を、此処に呈する。呈するべきは、是非にも無く、善悪にも無い、愛が損壊した途端、総ては、悪意にも執心にも成るからこそ、
真実の愛を担うべく、此処に顕在な意識を長じる矢先に転じる愛に演技は要らず、嫌疑に司る前擬にも成らず、成しても尚、降り注ぐ思いは、噴気し、可決すべき心に転換され、価値などは拭うべきだ、と宣言する」
屁理屈、と理屈は違うから、受け入れる事に、事柄を求める。投函する意識は咆哮し、
果然に求め合う愛などに批難しながら、些細な出来事の懸隔に埋まる。
煮詰まる思いは、反響し、加算すべき事実など無いのだ、と告げ、寛容な事実に機影を残し、
関すべき愛も、枯れ果てた頃にこそ、介すべき愛を用い、行いを正す是非を知る。
感銘に辿る意識は、用いる程に邪魔になる。寛容に生きよう、とすればするほど、邪魔な物が覆い、
身動きを取れなくする。
守ろう、とすればするほど、離れるものであり、瞬く間に押し寄せる時間には、中々勝てない。
加点すべきは、情況に押し寄せる根源を手繰り寄せ、簡潔に執り行う日々に、裁きなど有らず、
罪など有った、としても、有る前に留めるような愛を用いる事が、総ての軋轢を掻き消す。
それを説く行いをしない限りは、批難する事に有らず、あった、としても自己が批難した事に、
対して正論は抜きにして正す事こそが、人間の始まり、と言える。
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